自我とは
自我とは、他者や外界から区別して意識される自分の事です。
自我は、2 歳ごろから顕著に芽生え始めます。
自分と他者は何が違うのか
自分は何が好きで、何が嫌いなのか
自分は何が得意で、何が苦手なのか
自分がやりたい事は何か
自分が大切にしたい事は何か
自分がやりたくないことは何か
そもそも、「自分とは何か」を意識する事が「自我」です。
自我を簡単に言い換えると、自分の意識の主体の意味がわかることです。
自我は経験や記憶や感情によって蓄積されます。
人は、気付ける範囲でしか、気付くことができません。
見えている景色、それが自分の気付ける世界の全てです。
その世界の中で、心地のよい感情を求めます。
そしてその時、気付けている範囲だけが自分の世界の全てとなります。
経験や記憶や感情が蓄積されていくと、自我はその経験や記憶や感情を元に、自分の世界というイメージを構築していきます。
自我は、蓄積された経験や記憶や感情を利用して、人生を成り立たせます。
そして、少しずつ、自分が気付けない所にも、実際に世界が存在しているんだと思い始めます。
「超自我」と「エス」と「自我」
「超自我」とは社会の中で生きていくために必要な価値観のようなものです。
子どもの頃から教育や躾の中で身につける、倫理観や道徳観などで構成されます。
「エス」とは本能のまま、欲求のままに動く、いのちの衝動です。
「エス」は生きていく源でありとても重要です。
「エス」と「超自我」は対立します。その間に挟まって調整役になるのが自我です。
「私」の固有性
自分とまったく同じ容姿、同じ経歴、同じ性格、同じ能力の人は、世の中にだれ一人としていません。
例え似た顔の人はいても、経歴、性格、能力までは同じではないはずです。
「私」は他人とは取り替えがきかない唯一無二な存在でなのです。
内面の私秘性
自分がどう考えているかは、どう感じているかは、直接見えないから、他人にはわかりません。
その表情や言葉の内容・仕草から推測したとしても、本当の内面は他人にはわかりません。
痛みのような単純な感覚さえ、かつて似たような痛みに苦しんだことを思い出して自分に同情してくれる人はいるかも知れませんが、まったく同じ質の痛みであるかどうかは、確かめようがありません。
自分の内面は自分以外の誰もわかる事ができません。
「無我の境地」とは
「無我の境地」には2種類あります。
一つ目は、「一つのことに集中して、我を忘れている」状態の事です。
これは、「忘我」とも言います。
もう一つは、仏教的な「無我」です。
こちらは、「自我の執着・煩悩から解放されて、悩み・迷い・苦しみが無くなっている精神的な境地」です。
仏教における「悟り」の境地です。
心がすがりつくもの、それは多くの場合、自分の自我です。
自我に執着があるから悩み・迷い・苦しみが生じます。
自我の執着から解放されると煩悩から解放されて、悩み・迷い・苦しみが無くなっていきます。
無我の境地とは、簡単な言葉で表現するなら、「自我に執着しない」状態です。
自分を軸とすると悩み・迷い・苦しみが生じます。
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