人生に無駄な経験は無い | 歳を重ねて思うこと | クローン病という大病

人生

クローン病という大病

私は30代でクローン病という大病を患い、
8時間に及ぶ大手術(研修医が勉強のために見学も含め)
半年間に及ぶ入院生活と完全絶食生活
3年間に及ぶ通院による経管栄養治療を経験しました。

クローン病は、免疫不全の病気です。
まだまだ未解明な部分も多く、国に難病指定されています。
小腸から大腸に至るまで、潰瘍ができ、重度になると、腸が狭窄して食べた食料が通らなくなり、腸閉塞を起こしたり腸管が破け腹膜炎を起こします。

私の症状は、大腸と小腸の境目(バウヒン弁あたり)に潰瘍ができ、腸が狭窄して腸閉塞を起こしていました。
原因不明の腹痛が続くので、何回も色々な病院で診察を受けますが、なかなか原因がわかりませんでした。

長期間、原因不明の腹痛に悩まされ、食事ができなくて体重は20kg減少し、苦しみ続けているところで北里大学病院の内視鏡検査でクローン病であることを見つけていただき、入院することができました。
もし、発見が遅くなっていたら、致命的になっていたかもしれません。

入院して直ぐ、IVHという心臓に近い静脈に、高濃度の栄養点滴の針を入れるための手術を行いました。
高濃度の栄養点滴は、太い血管でなければ詰まる可能性があるので、心臓に近い静脈に点滴の管を入れる必要があります。心臓に近い所なので、間違って針を刺すと危険なため、技術を持ったお医者様による手術が必要です。

IVHを入れてからは、経口による食事は一切禁止となり、手術が終わって半年間は完全絶食でした。
何故、絶食にするかというと、腸で炎症が起きているので、腸の安静を保つためです。
この時、主治医からは、「クローン病は直らない病気」「再発し再入院を繰り返す可能性が極めて高い病気であり、一生治療は続けなければならいと思う」「万が一食事が取れるようになったとしても、経管栄養は続けなければならず、食事は限定的である」と言われました。
クローン病の食事制限は、とても厳しく、一生好きなものが食べれないかもしれないと知った時は、「人生終わった」と感じました。

半年に及ぶ入院生活の中で、沢山の人と出会い、別れ、それぞれの人の壮絶な人生に触れることができました。
入院生活では、患者同士で世間話をする機会も多く、年齢関係なく友達になります。
でも、みんな大病を患って入院している訳ですから、病状が急変して、病室がナーズズテーションの近い所に移動して(病状がやばくなるとナースが頻繁に対応しなければならないのでナーズズテーションの近い所に移動されます)しばらくして様子を見に行くと、ベットがきれいに整理されています。

昨日まで元気に世間話をしていたおじさんが、ある日、突然お亡くなりになります。
他の患者達は、大体事情はわかっていて、病気の事、その後の経過、どのような症状でいつお亡くなりになったのかなどを大体把握しています。

病院では頻繁に死に直面します。そして自分の死についても真剣に意識するようになります。
私は、大手術の前に執刀医から「手術は100%ではないこと」を説明され、「万が一手術に失敗しても病院や医師を訴えません」的な誓約書にサインさせられました。

麻酔医からも「全身麻酔について」の説明があり、全身麻酔は自発呼吸がなくなるため麻酔医による人工呼吸に切り替えること、麻酔が切れた後、たまに自発呼吸が戻らなくなり死亡するケースがあることの説明受けました。
実際、手術の際、手術室に運ばれ、手術台に乗せられ、麻酔のマスクを口に被せられて直ぐに、意識が無くなり、手術が終わり、目が覚めたときには大勢の医師に取り囲まれ、そのうちの医師の一人が「戻らないかもしれないかと思った」と言ったのを覚えています。朦朧とした意識の中で「死」を意識した瞬間でした。

手術の前には、手術の恐怖。
手術の直後には、死んでいたかもしれないという恐怖。
手術の後しばらくは、手術跡の激痛。
手術後の痛みが治まると絶食に対する絶望感。
退院後も経験栄養が続くことに対する絶望感がありました。

入院中は、本当に暇で、テレビを見ているか、余計なこと(「死」や「治らなかったら」などネガティブなこと)を考えます。そのような入院生活の中で私は簿記の勉強を始めました。退院後、簿記の3級・2級を取得して税理士の勉強を始めることになります。
30代でクローン病という大病を患い
大手術を経験し
長期入院を経験し
長期の治療生活を経験しました。
かなり長い時間を入院&治療に費やしました。
当時は、自分の人生の貴重な時間が無駄に消費されている事に落胆しました。
しかしながら今思うと、あの時大病したからこそ

「命の大切さを誰よりも認識することができた」
「いつ死ぬかもしれない残りの自分の人生を大切に生きなければならないと思った」
「家族の大切さを改めて認識できた」
「病気をきっかけにして、勉強を始め、今では基幹系のシステム開発に役立っている」

と人として本質的な事を学ぶ事ができた時間だったと思います。
全て上手くいっていて、順調な人生だったら、何も考えず、無難に生きていたと思います。
死に直面しなければ、命の尊さをここまで感じる事は無かったと思います。
歳を重ねて今、良かったと思うことは、病気したことは苦しく厳しい経験だったけれど、
自分の命について大切に思えているのは、
あの時の大病を経験したおかげで、
病気した経験も「無駄ではなかった」と思います。
私の人生観は、この大病をきっかけに大きく変わりました。

歳を重ねて思うこと

私の人生において、大変な困難は沢山ありますが、大変だった経験も、そこから学べるならば「無駄な経験ではなかった」と思います。
大病して長期の入院で一日中ベットの上での生活は一見「無駄な人生」ですが、私にとって「死について考える」「生について考える」貴重な時間だったと思います。
「難有り」を「有難い」に変える人生は、貴重だと思います。
病気:「難有り」は、不幸なことかもしれませんが、そこから命についての尊さを学べたならば、「有難い」事なのだと思います。
「命についての尊さ」なんて、本を読めばいくらでも書いている当たり前な事ですが、
「本を読んで知識として知っていること」と「実体験を通して感じる事」は別物だと思います。
「知識」は「経験」と合わさって「知恵」になります。
「知識」も大切ですが、「経験」を伴わない知識は机上のモノで有り、実感がわきません。また、「知識」を伴わない「経験」は、腹落ちしていない可能性があります。
「知識」と「経験」はセットで「知恵」と成ります。
フジ子・ヘミングは「人生に無駄なことなんか、ひとつもない。生きるってことは、いろいろ経験すること。その時は、自分とはまったく関係のないことのようでも、その経験が大切に思える時がきっとくる。」と言いましたが、彼女が「難有り」の状態から「有難い」に変わる時(その経験が大切に思えた時)に実感した言葉だと思います。
「難有り」な人生を「有難い」に変えると人生は充実します。
「無難」な人生は、つまらない人生だと思います。
挑戦をすれば色々な「難」に遭遇します。
でも色々な「難有り」な人生は、後から考えると、それを乗り越えることにより、人生をドラマチックにし、豊かにしてくれると思います。
「無難」に生きるよりも、色々な経験をし「困難」を乗り越え、それを「有難い」と思えるならば、その人生は物語として面白いし、一生を終えた時に充実感が得られると思います。

Follow me!

コメント

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました